馬さん🐎のお話ではなく競馬界の調教師さんが話題にされていた事ですので、この投稿を不快に思われた方がいたら申し訳ございません。
福永調教師がInstagramで紹介されていた映画を観に行ってきました。
河瀨直美監督の最新作『たしかにあった幻』。
福永調教師が奥様と手を取り合って泣いたというエピソードも頷ける、命のバトンを描いた重厚な作品でした。
目の前で幼い命が消えていく瞬間や、脳死と判定された子供の臓器がレシピエントの元へ出発するシーン。私も思わず涙が溢れました。けれど、観終わった後に私の心に残ったのは、感動だけではない2つの大きな「問い」です。
1. 移植された側は、本当に「健康」になれるのか
幼い頃に骨髄移植を受けた友人がいます。命は助かったけれど、今も一生免疫抑制剤を飲み続け、決して「健康になった」とは言い難い日々を送っています。移植のメリットばかりが強調され、当事者が一生背負うデメリットや苦労の説明が不十分なのではないか。救われた後の「日常」の重さを考えずにはいられませんでした。もちろん私は彼女の命が助かって今も友達でいてくれている事に感謝しています。ただ、その彼女から子供だった頃の事なのでこちらの理解力が足りない事も否めないがデメリットの説明をもう少しきいておきたかった。親も子供の命を優先してメリットのみしか見えてないから第三者からきちんと移植前の説明を親抜きでしてもらうべきだったと打ち明けられた事がありました。実際彼女は親の気持ちもわかるだけに両親にはこの話をしていないそうです。
2. 「脳死」は本当に人の「死」なのだろうか
映画では美しく描かれていたけれど、もし、意識があるのに周りに伝わっていないだけだとしたら?実際に植物状態と思われていた患者が、実は意識があり、麻酔なしの治療を拷問のような痛みとして感じていた例もあると聞きます。映画では描かれなかったその「境界線」の不確かさが、どうしても頭を離れません。
「美しい感動の物語」として受け入れるには、あまりに重く、解けない疑問がたくさん残る映画でした。命を繋ぐということは、単なる美談では終わらない、もっと複雑で切実な問題を孕んでいるのだと痛感しています。
